「夢」「窓」「氷」「三日月」「埃」
「ここに高名な剣士がいると聞いたのだが 」
勢いよくドアを開けたのは、身の丈ほどもある剣を背負った偉丈夫。 店主は気圧されず、ご注文は、と返す。飲まぬ客に渡すものなどないのだ。
「俺は酒を飲みに来たわけじゃねえ。さっさと聞いたことに…… 」
「ご注文がないのでしたら、お引き取りを 」
にべもなく返す店主。
「……樽酒を頼む 」
「右奥、窓際のテーブルでお話を」
グラスに注がれた、樽の色に染まった液体を一気に飲み干すと、喉から胃にかけてかぁ、と熱くなる。グラスを店主に返し、指定された席へと向かうと
「またくだらん与太話を信じた馬鹿が来おったか 」
吹けば倒れそうな爺が一人。グラスを持つ手は震え、それを支える腕は枝のように細い。腕だけではない、全身の肉という肉がそげているようにも見える。
「与太話とはどういうことだ。俺が聞いた剣士は今にも死にそうな老いぼれの癖に、剣を向けたらいつの間にか倒されてるって話なんだが 」
あんたじゃないのか、と言いつつ、老人の前の席に座る。
「ここらで有名な剣士について知っていることを話してくれ 」
「昔ならともかく、今はそんなものはおらん 」
「昔ってことはいるのか、話せ 」
そう焦るな、と空になったグラスを揺らす。
店主が新しくグラスを持ってきて、剣士のほうに手を突き出す。ここではそういうルールらしい。硬貨を渡し、爺の話を待つ。
あれはもう死んどるよ、と言う。
数十年前のことじゃ、とぽつぽつと語り始める。若いころの爺は剣士と同様、強者を求めて流離っていたらしい。そんなある日、この町に強い剣士がいると聞いて立ち寄ったそうだ。
「年若い女でな。氷のように冷たい表情をする女じゃった」
爺は女に勝負を挑み、そして手ひどくやられた。その剣はひどく流麗で、さながら舞を見ているかのようだった。その件には敵わぬと、至ることのできない高みだと痛感し、強者を求めることをやめたのだ。
「じゃがな、あの剣が目に焼き付いて離れんのだ。瞼を閉じれば何時も彼奴と立ちあっておるのだ。どうすればあの美しい剣に至れるのかとひたすらに立ち会いを続け、そしてなぞるように剣を振り続けておる 」
そうしているうちに時は流れ、女はいなくなったそうだ。その後も剣を振り続け、時折この酒場に来る剣士を求めるものを叩き帰していたらしい。なぜ無手で相対していたのかと問うと、見せるほどの高みに達していないからだ、と返してきた。
「そろそろ潮時かもしれん」
剣は振るにはこの体は衰えてしまったという。これも何かの縁だ、振るえるうちに剣を見てほしいと言ってきた。見せるようなものではないのではなかったのか、という疑問を飲み込み、頷いた。爺の言う高みに達していなくとも、それに近い何かは得られると感じたからだ。夜、町の外れでとつぶやき、爺はよろよろと立ち去って行った。
***
望んでいた剣士かはわからない。が、立ち会う相手には全力で立ち向かう。それが男の信条である。爺が去った後は宿へ戻り、日が暮れるまでじっくりと準備をする。振るう剣は研ぎなおし、一片の曇りなきよう磨き上げた。剣身に映る自身の顔にそれに刻まれた傷が重なる。このひとつひとつが男を強くし、さらなる強さを求めさせている。彼らは言うのだ。今宵の獲物は極上だ、と。鞘へ納め、目を閉じ、深呼吸。全身に闘気を巡らせる。荒ぶるそれが穏やかになるまで呼吸を繰り返す。
「行くか 」
爺は月の下で目を閉じて佇んでいた。腰に佩いた剣は輝き、そしてくすんでいる。幾年と同じ動きを繰り返したのであろう、鞘は爺の掌の形にぬらりと光を走らせ、そこ以外は埃が払われてすらいない。
「爺のたわ言と流さず、此処へ来てくれた貴様に最大限の謝辞を 」
酒場で見た枯れ木のような爺はそこにはいなかった。吹けば倒れそうな風体をしているくせに、軽く握れば折れそうな躰をしているくせに、それとはまるで反対のものを見ているようだった。そうだ、それでいい。それが男を強くするのだ。
「礼なぞ要らん。構えろ 」
倒す道筋はとうに見えなくなった。見えないなら、倒される前に見つけるまでだ。何時ものように握り、腕を動かす。分厚い鉄はしゃらん、と軽やかな音を奏で、男の呼吸を整えた。
剣士は腰だめに構え、動かない。剣身をわずかに覗かせているが、どう動くのか見当がつかない。曲刀を扱う民族の構えに似ているが、あれと同じものではないと勘がが告げている。注意深く、剣士の動きを観察する。
――たんっ
軽い音とともに、剣士がこちらに駆けてくる。駆けてきていた、その筈だった。男の目から、剣士は姿を消したのだ。
周囲の気配を探る、前、後ろ、右、左……どれにも剣士はいない。
直後、脳天に何かを感じた。天高く飛び上がり、こちらに剣を振り下す姿があった。夜の光は遮られ、しかし振るう銀色が三日月のようだった。
「わしの剣はどうじゃ」
剣士は男の首にあたる寸前で刃を止めていた。忘れていたかのように息を吸うと、ぴり、と痛みが走る。
「夢に出てきそうなほどに最悪な剣だ 」
「最高の、誉め言葉じゃな 」
そう言って爺は倒れ、それきり動かなくなった。